小川哲さん、『ゲームの王国』もよく分からない!

2020年5月31日


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『ゲームの王国』がすごく評価されているのですが、個人的には納得できない部分が多くて「うーん」となっています。

上巻の2章はとても素晴らしかったなと思っていますし、とくに上巻は「すごい!」と引き込まれる部分もたくさんありました。すごい作家さんだなとは思うのですが、あまりに引っかかる部分が多かった本作。

下巻については、力作だと思いつつも、作者が途中で放り投げた物語にしか思えず、ラストに向かって無理矢理に話を整えただけという気さえしました。おそらくは、SF部分の裏付けが弱く、全員をどこかでわざとらしく繋げたせいでスケールが小さくなったことが原因かなと思います。

以下、ネタバレ感想ではありませんが、ネタバレを気にせずに書いているので未読の方はご遠慮ください。

上巻に関して

サロト・サル――後にポル・ポトと呼ばれたクメール・ルージュ首魁の隠し子とされるソリヤ。貧村ロベーブレソンに生を享けた、天賦の智性を持つ神童のムイタック。皮肉な運命と偶然に導かれたふたりは、軍靴と砲声に震える1974年のカンボジア、バタンバンで出会った。秘密警察、恐怖政治、テロ、強制労働、虐殺――百万人以上の生命を奪ったすべての不条理は、少女と少年を見つめながら進行する……あたかもゲームのように。

上巻はマジックリアリズム小説です。ポル・ポト以前から話がはじまり、共産主義が弾圧されていた時代からはじまります。嘘を見抜く少女「ソリヤ」と天才である「ムイタック」を中心にした、二人の、そしてその周囲の人々の物語です。

多くの人が亡くなるため読み進めるのがなかなか辛い物語ですが、歴史を下敷きに「理不尽に翻弄される人々」とカンボジアを背景とした不思議の力を持つ人たちの物語にひきつけられます。秘密警察時代の不条理さ、それが倒されたあとのポル・ポト政権でのさらなる不条理さ。続きが気になって一気に読みました。

上巻は読んで良かったと思いました。さすがに残虐な描写も多くて「おもしろい」とは表現できないものの、とてもすごい小説です。

ですが、個人的に気になるのが、目的(ストーリー展開)のためには手段を選ばない(ありえない展開を用いる)手法。マジックリアリズムの不思議さは構わないんです! 輪ゴムで人が亡くなることを予知するとか、ソリヤが嘘を見抜くとか、ムイタックがバイ菌にこだわる天才であるとかはおもしろかったです。むしろ作品の背景とは合っていて素晴らしい! 後半のプク(泥)の無双攻撃もまだ大丈夫。

それならば、なにが気になったのかというと……

個人的に気になった点

・ティヌーはなぜサルの名前を出したのか。しかも詳細情報を喋るしゃべる。

他にやりようはあったんじゃないかと。ティヌーがこんなに迂闊だったなら、ティヌーはもっと早い段階に捕まっていたのでは? ついでにサルも。そもそも、用心深いサルがこんなティヌーを雇う理由はなに? と、上巻24ページ目あたりで「???」となったのは私だけ?

ストーリー上、ソリヤがポル・ポト(サル)と関係していることにしたかったのはわかります。が、後半にいくとソリヤがポル・ポトの隠し子(かも)しれない点がたいしていかされない。この設定があまりいかされているように感じないので、不可解な情報の暴露(を曲解する養父を含む)の必要性よ……と思うんですよね。

(3章以後になると、この設定の矛盾がさらに浮かび上がります)
ソリヤは残された資料からポル・ポトが父親だと思い込んでいるけれど、その資料って警察へ捨て子として届け出たとき父親欄にサロト・サルの名前があるやつですよね。ポル・ポト=サロト・サルって、なんでわかったの? ソリヤがポル・ポトの名を使ったとき、彼女はポル・ポト=サロト・サルだと知らなかったはずなんです。

歴史を知るわたしたちはポル・ポト=サロト・サルと知っているけれど、当時、共産主義者は自分たちの身分を隠していたはずです。なにより、ポル・ポトの本名はサロト・サルとされていますが、本人が認めたわけではないんですよね。どうして、ソリヤがサロト・サルの名をポル・ポトと結びつけたのか。ソムが隠れているときに、サル=ポル・ポトと書き残すのも不自然。それこそ秘密警察に捕まったときにどうするつもりだったんだと。

下巻の2023年になってからサリヤがそれを知ったのなら問題ないですが、サリヤはポル・ポト政権下でそれを使っています。また、サリヤがポル・ポトの名を使ったのであれば、それを知った上層部が口を噤んだのは何故か。ポル・ポトに誰か進言しなかったのかと不思議でなりません。最高権力者の子どもなんだから、もうちょっと真偽確認をするのでは?

設定に無理があるように思えるんです。ソムが彼女を守った理由と、ポル・ポト政権下でちょっと使ったという、物語を動かすためだけの手段にしかなっていない。ポル・ポトが父だから、父の所行を正さなければならない的な戦いがほとんど見えないので(多少はあるんですが、後半になればなるほどこの設定に意味がなくなっていく)、この重要設定に納得ができないのです。

下巻で政治家を目指すサリヤが、実はポル・ポトの隠し子かもしれない件で脅されたり、振り回されたりする予定だった(けど使わなかった)のではと疑っているんですが……ほんとなんでこの設定が必要だったんだろう。

・ソムがお金を必要として自宅に戻る

突然隠れ家にしておいて、老人に本や新聞まで要求しておいて、いきなり改心して出て行くなといいたい。ソムがそばにいれば、サル=ポル・ポトだとソリヤが知っていた理由も納得ができるのに!

老人の時計のエピソードやソムの心の変化などの描き方が秀逸なので、いきなり飛び出していったソムとそのあとの物語の収束の仕方に溜息しかでません。なんでそうなった。

しかも、ソムがこれ見よがしに「相手の策略に気づく」んですが、そんなに鈍くて大丈夫だったのかとびっくりします。秘密警察でよくスパイをやっていられたなと思わずにはいられない。

都合が悪くなるとキャラクタを消し、物語を書きやすいほうへと導いているようにしか思えない(これが後半まで続きます。何人も、必要性がなくなったり、残っていたらストーリーが複雑になるだろうキャラクタが消えていく)。

上巻のまとめ

上記の気になった点2つはともに第1章から。

第2章は逆にマジックリアリズムとしてすごくおもしろくて、荒唐無稽なところがとてもいい!

が、第3章になると、また戻ってくるんですよね。作者が書きやすいように、キャラクタやエピソードが設定されてしまっている気がするようになってしまって。折角のマジックリアリズムさえも、作者に利用されているように思えて乗れなかったんです。

サムがどうやってプノンペンから自分の町へ帰って来ていたのかもよくわからないし、フォンとムイタックたちがどうやって落ち合ったのかも書いてほしいかったなと思いましたが、まあ些細なことです。

「ルール」についての考え方や用い方、試行錯誤の状況はとても興味深く読みました。また、激動のカンボジアを描いた作品としても興味深かったです。その反面、設定やストーリーがそれを描くための道具になっている気がしてしょうがなかったのも事実。

上巻は「すごいすごい!」という部分もかなり多くて、とくに第2章の素晴らしさで「傑作!」と結論。
また、ラストで主人公の少年少女が敵対する印象的なシーンがあり、下巻への強烈なひきになっている点も素晴らしかった。このラストのためなら、これまでの無理矢理設定も気にするのはやめようと思ったんです。

が、この上巻で引っかかったところ、たとえば扱いに困ればキャラクタが退場したり、困ったらとりあえずマジックリアリズムで抜けてしまえというマジックリアリズムの乱発などが、下巻ではさらに引っかかるように……。

下巻に関して

「君を殺す」――大量殺戮の季節が生んだ、復讐の誓いとふたりの訣別から半世紀が経った。政治家となったソリヤは、理想とする〈ゲームの王国〉を実現すべく権力の頂点を目指す。一方でムイタックは自身の渇望を完遂するため、脳波測定を利用したゲーム〈チャンドゥク〉の開発を、早熟な少年アルンと共に進めていた。過去の物語に呪縛されながらも、光ある未来を希求して彷徨うソリヤとムイタックが、最後に手にしたものとは……。

なんだろう……後半にはいってマジックリアリズムとしてのできが一気に落ちた気が。

設定が不必要になったのか、ソリヤの「嘘を見抜く」能力は減退したとか。そのわりにその娘は「嘘を見抜かれている」と感じていたり。ムイタックもまたわりと普通人になり。泥の造形も意味不明さだけ(人によってはおもしろいのかも)を追求して、必要なくなると退場。

今度は、カンという不正を感じると勃起するキャラクタが出てくるのですが(キャラ造形として面白いと感じる人もいるかもしれませんが)、個人的にはストーリーを動かすためだけに必要だっただけではと感じました。(深読みしすぎかもしれませんが)ラストにソリヤと関わってきたとき、この展開と設定にメタファーがあるのならなんて古くさく、使い古されたネタだと……、おそらく私の考えすぎですね。

マジックリアリズムはさておき、肝心のSF設定であるゲーム「チャンドゥク」が浅く感じました。これがもう少しちゃんとSF設定されていればおもしろかったのにと思います。ある魔法を出すために記憶を捏造するとか、ゲーム中で人の体験をトレースさせるとか、設定は面白いんですけどね。

魔法を出すために記憶を捏造するというのはいいんです。しかし、なぜほぼ同じストーリーを捏造するのかの根拠はない。ヘッドギアが脳に干渉しているわけでもないのに、同じストーリー(いったことがない場所で、家族構成さえ違う)を浮かべたというのは、物語を推進するためだけに必要だったとしか思えなくて消化不良。

このSF設定の収束の仕方がなんとも都合良くて、あまり面白みを感じないです。

後半に入っては、関係者がみんなどこかで繋がっているという違和感に溜息。そもそも、ソリヤはよく娘がムイタックと接触することを許したなと不思議だったり(これも物語の必然性ゆえだと思うんですが)、困ったときの殺し屋が出てきたり、政治家として大事な局面でゲームにはまる余裕があるとか、なんでもありだな……溜息。

という感じの下巻。

おわりに

ご都合主義の小説ってたくさんあると思います。たとえば、実は親子でしたとか、実は知り合いでしたという作品があったとしても、そうきたかと思う程度。そこが繋がったことで新たに物語りが広がったり、動き出したりしておもしろくなっていくので、ご都合主義が悪いとは思いません。私個人としては、物語が要求するご都合主義は面白いと思っていますが、作家が必要としたご都合主義は矛盾や違和感になると考えています。

本書においては、ご都合を合わせた結果、矛盾が生じたり、人物造形が一気に崩れたりするのが個人的には受け付けないです。扱いに困ったキャラクタがあっさり退場していくことにも溜息しか出てこないです。

ものすごくうまいなと思うエピソードや、キャラクター設定などに引き込まれはするのですが、ご都合主義を超えた、登場人物は皆繋がっている上に作者のやりたい放題という印象がぬぐえず、この作者の本はもう読むまいと思ったんでした……。

設定や登場人物、場合によってはストーリーさえもが、作者の目指す結末への道具になっている感がします。もちろん、設定や登場人物は、ストーリーを動かすための道具という印象。

本作がとても評価されているので、私の読み方が悪いのかとも思うのですが……(読み落としているのかな? 誰か教えて……)。

今回、『嘘と正典』が直木賞候補になり、しぶしぶ読むことに。読んで良かった!という傑作でしたが、表題作の「嘘と正典」には、「ゲームの王国」で感じたのと同じ印象を感じました。逆に「魔術師」はとてもおもしろかったなあと思います(好みかどうかはさておき)。