文豪ストレイドッグス【文スト】考察! 太宰と中也の関係、史実では?
いろいろな逸話を残した、太宰治さんと中原中也さんについてまとめました!
太宰さんと中也さんの比較 表にまとめました
| 太宰治 | 中原中也 | |
| 生まれ年 | 1909年(明治42年) | 1907年(明治40年) |
| 家 | 県下有数の大地主の家柄(十番目の子) | 開業医である名家の長男 |
| 文学 | 小説家(純文学) | 詩人・訳詩者 |
| 代表作 | 『人間失格』、『斜陽』 | 『山羊の歌』、訳詩集『ランボオ詩集』 |
| 異能 | 『人間失格』 | 『汚れつちまつた悲しみに』 |
| フランス語との関係 | 東京帝国大学文学部仏文学科 | アテネ・フランセに通いフランス語を学ぶ |
| 文芸仲間など | ・井伏鱒二、佐藤春夫に師事。 ・檀一雄、中原中也などと『青い花』を刊行。創刊号のみ。後に『日本浪曼派』の同人となる。 ・坂口安吾、織田作之助、石川淳らと、無頼派(新戯作派)と称される。 ・芥川賞(第一回)で候補となるも、落選。川端康成より私生活を問題にする評をもらって反論。 |
・小林秀雄(評論家として有名)との交友は有名。中也、小林、長谷川泰子との三角関係も有名。 ・同人誌『白痴群』を刊行。河上徹太郎、大岡昇平、安原喜弘などが参加。中也の死後、大岡の編集解説で『中原中也詩集』が刊行され、話題に。安原が一番の親友だったと考えられている。 ・装丁家で美術評論家の青山二郎と親交。 |
| 問題児っぷり | 派手な女性関係、自殺未遂、左翼活動、薬物中毒。 | 酒乱、自由奔放、喧嘩っ早い。坂口安吾、大岡昇平、太宰治など喧嘩エピソードにはことかかない。 |
太宰さんと中也さんの喧嘩
太宰は同人誌『青い花』の刊行にあたって、中也と飲み屋(おでん屋「おかめ」)で飲んでいます(檀一雄、他も同席)。有名なエピソードがこちらです。
初めのうちは、太宰と中原は、いかにも睦まじ気に話し合っていたが、酔が廻るにつれて、例の凄絶な中原の搦みになり、(中略)
「何だ、おめえは。青鯖が空に浮んだような顔をしやがって。全体、おめえは何の花が好きだい?」
太宰は閉口して、泣き出しそうな顔だった。
「ええ、何だいおめえの好きな花は」
まるで断崖から飛び降りるような思いつめた表情で、しかし甘ったるい、今にも泣き出しそうな声で、とぎれとぎれに太宰は言った。
「モ、モ、ノ、ハ、ナ」
云い終って、例の愛情、不信、含羞、拒絶、何とも云えないような、くしゃくしゃな悲しいうす笑いを泛べながら、しばらくじっと、中原の顔を見つめていた。
「チェッ、だからおめえは」
という中原の声が肝に顫うようだった。
(略 乱闘となる)(檀一雄 『小説 太宰治』)
太宰は「ナメクジみたいにてらてらした奴で、とてもつきあえた代物じゃないよ」と語っていたとか。
そういえば太宰のほうが年下なんですよね。気弱な太宰は、傍若無人な中也から逃げ回っています。檀一雄によると、そもそも二人は3度しか会っていなかったとか。
ただ、太宰が中也の才能を買っていたのは本当のようですね。
やりたい放題の中也さんですが、その独特の世界観は小林秀雄、室生犀星、萩原朔太郎などからも評価されていました。
中也さんと小林秀雄さんの三角関係
有名な三角関係です。
中原中也は山口で中学校を落第したあと、立命館中学(三年)に転入しています。京都で長谷川泰子(劇団女優)と出会い、同棲をはじめたのですが、その後、大学の予科を希望して上京。上京した年の11月、長谷川泰子は中也の元を去り、小林秀雄と同棲を始めます。
驚くべきは、このとき中也18歳、泰子21歳、小林秀雄23歳とか。大学生だと思えば驚くほどでもないのか?
ちなみに、同棲の約2年半後、小林は長谷川のもとから出奔。
この後も、中也と小林、中也と長谷川の関係は奇妙にも続いていきます。
太宰さんの自殺未遂のまとめ
1回目 旧制弘前高等学校時代(3年生) カルモチン自殺
『苦悩の年間』にて、「私は賤民ではなかった。ギロチンにかかる役のほうであった」と書いている。自身は貧民の志がある(プロレタリア)が、家が金持ち(ブルジョワ)であることに苦悩しているという意味に取れる。高校生で芸者遊びを覚えていた太宰さんなので、苦悩しつつも、ブルジョワであったことは確かです。
実際には左翼学生が相次いで逮捕されていたこともあり、逮捕を逃れるためだったのではとも言われています。また、芥川龍之介さんの自殺以降(このとき太宰は高校1年生)、急激に成績が落ちており、卒業を控えていた太宰が試験などにストレスを抱えていたことも指摘されています。
2回目 カフェの女給 田部シメ子さんと 心中未遂
行きつけのカフェの女給と、鎌倉の海岸で心中未遂。このときは、太宰のみが生き残ります。自殺幇助の疑いで取り調べを受けますが、起訴猶予。おそらく太宰の実家(津島家、とくに兄)が奔走して起訴猶予にしたと言われています。
発作的な自殺と考えられています。というのも、家から勘当された直後だったのです。勘当理由は、芸者の小山初代さんとの結婚とされていますが(勝手に置屋から連れ出して上京させている)、傾倒していた左翼活動のほうが問題視されていたとか。
3回目 大学を卒業できず、就職も決まらず 自殺未遂
都新聞社(現在の東京新聞)の入社試験を受けますが、落ちてしまいます。これを悲観し(仕送りも止まりそうですし、大学も卒業できないし)、1935年3月、鎌倉八幡宮の裏山で首つり自殺を図るも、紐が切れて生き残ります。同年9月には東大を除籍になりました。
4回目 妻の不倫に絶望し 心中未遂
妻というのは初音さんです。
太宰が入院中(パビナール中毒により精神科へ)、妻が義理の弟と不倫そしていました。この秘密の関係が太宰にばれてしまったのです。これに激怒した太宰は、水上村谷川温泉へ向かい、谷川岳の山麓でカルチモン自殺を図る。二人は生き残り、別居生活のあと、正式に離婚しています。
5回目 愛人(山崎富栄さん)と心中を図る
石原美知子と結婚し、子どもも生まれ安定した生活を送るようになりました(戦争で疎開をしたりと、いろいろありましたが)。
しかし、太宰は愛人が2人いました。
一人は太田静子さん。『斜陽』を書く際、太宰は静子に日記を提供するよう求めています。太宰はこの日記を材料に『斜陽』を書いており、またその執筆中、静子に子どもができました。
そしてもう一人、美容師の山崎富栄さんです。太宰が『斜陽』を執筆していたころに出会ったといわれています。「死ぬ気で恋愛してみないか」という太宰の口説き文句はあまりに有名です。
妻もあり、静子との関係も切れない(しかも子どもを認知)の状態で、富栄は静子へと心中をほのめかす手紙を送り、玉川上水で投身自殺を図ります。遺体が発見されたのは、奇しくも太宰の誕生日、6月19日でした。
中也さんが絶賛した人 宮沢賢治さん
中也は次のような文「宮沢賢治全集の刊行に寄せて」を贈っています。
僕は彼の詩集、「春と修羅」を十年来愛読してゐますが、自分が無名のために、此の地方で印刷された驚くべき詩集を、皆さんにお知らせする術を持ちませんでした。(中略)
此の我々の感性に近いもの、寧ろ民謡でさへある殉情詩が、此の殉情的な国で、今迄読まれなかつたなぞといふことは不思議だと、今度此の全集の第一巻が出た後では、諸君も必ずやさうお思ひになることと思ひます。(以下略)―青空文庫より
ちなみに、中也は5銭で売られていた『春と修羅』と出会って強く惹かれたようで、仲間にも勧めています。宮沢賢治にかなり傾倒していた様子が見られます。
誰もが知っている作品紹介
中原中也 『汚れつちまつた悲しみに……』(『山羊の歌』より)
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気おぢけづき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……―青空文庫より
太宰治 『走れメロス』
メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此このシラクスの市にやって来た。メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、花婿はなむことして迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。
―青空文庫より
中学生の検証で「実は走っていなかったメロス」になった『走れメロス』です。
じつは、『走れメロス』の元ネタとなったのではないか?といわれる事件があります。
太宰は熱海の旅館で宿泊費が払えず、檀一雄がお金を持っていきます。が、ぜんぜん足りない。そこで、太宰は東京へ帰ってお金を工面することになるのですが、かわりに置いていかれたのが檀一雄です。
が、太宰は帰ってこず……太宰を探しに出ると、井伏鱒二のところで将棋を指していたとか。太宰曰く、「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね。」
元ネタが元ネタなので、『走っていなかったメロス』であったことも仕方がないのかも?
まとめ
まとめたいけれど、思っていた以上にすごいエピソードが満載でびっくり。高校生で芸者遊びを覚えた太宰さんとか、狂犬じみた中也さんとか。「らしい」といえば、「らしい」のかもしれませんけれど。
二人のことを調べて一番印象深かったのは、喧嘩っ早い中也さんですが、小柄で150㎝前後だったと言われていることです。そのため喧嘩はめっぽう弱く、それでも噛みつかずにはいられなかった狂犬さんでした。ちなみに、太宰さんは当時としてはかなり大柄な175㎝だといわれています。明治~大正の頃は、男子の平均身長が160㎝程度だったようですね。






